暗いとはいえ、目が慣れてきたのか、全く見えないわけではない。ここ数日間居座っている灰色の雲は,相変わらずサイパンの空を低くしている。その雲から、時折雨がしたたる。潜ってしまえば関係ないとはいえ、いやな天気だ。クラブハウスを出発したのが午後8時に近かったように思う。昨日カシラから問いかけがあった。「グロットでナイトダイビングをしてみませんか?」グロットのナイトダイビングは、とりわけ珍しいことではないようだが、連日の雨で腐っていた我々は、すぐに話に乗った。
グロットはダイバーの間では有名な場所だ。海側から見ると、とてもエントリー出来そうもないところなのだが、陸側に大きな竪穴が開いていて、その穴の下まで降りてからエントリーする。穴は海面下22メートルほどまで掘れており、水底の3つの横穴で外洋と繋がっている。
今回のメンバーはカシラ、神様、ひょっとこの3人。
手順は明るいうちに打ち合わせてある。暗く、人っ子一人いないグロットの駐車場に車を止めた我々は、そそくさと身支度を整え階段を下りた。もちろん車には何も残してこない。治安のよろしくないサイパンでは当然のことである。昼間であれば、階段ゲート脇の展望台から海の様子を確認するのだが、今回に限ってはそれは必要のない行為である。真っ暗で深い竪穴は、上からでは3基のライトキャノンの強い明かりも吸い取ってしまうのである。サブライトで足元を照らし、100段あまりの階段を一歩一歩慎重に降りて行く。
エントリーに使っている大きな石舞台に到着した我々は、もう一度手順を確認した。海面は穏やかだ。天を見上げれば、漆黒の闇の真中の大きな口の向こうに、深い灰色の雲が見える。いつもであれば、石舞台の上からジャイアントストライドやフィートトゥゲザーで、ざんぶらこと飛び込むところだが今回は安全を考え、またカメラやロープを持っていることもあって、大岩左脇のエキジットロープからずぶずぶっとエントリーすることにした。エキジット用のブイまでロープを伝ってゆっくり進む。ブイで集合した我々は今一度手順を確認しあい、コンパスで方向を定め、静かにロープ潜行をはじめた。
潜行開始時刻20時27分。気温水温共に29℃。
カシラと神様がブイを係留している水深5メートルのロープの根元に、持ってきたロープを縛り付ける。その30メートルほどのガイドロープは、万が一にも方向を見失ってパニックやバーディゴ状態に陥らないように用意してきた物だ。
3人はお互いを見失わないように近めに距離を取り、コンパスを頼りにゆっくりと進む。進む方向は、3つの横穴の右穴の方角だ。途中、カシラが私にサインを送ってきた。用意してきたロープの長さが足りないのである。グロットの水中は大小の岩が複雑に折り重なり、アップダウンが激しい。したがって、横穴近くの深場に降りていくには直線では進めず、ロープが思った以上に必要であったということだ。私は、ダイビング時にいつも腰に巻いている2重鎖編みにした15メートルの6ミリロープをほどいてカシラに渡した。ロープが足りない場合の打ち合わせは出来ている。延長したロープの先端にサブライトをくくりつけ、またゆっくりと泳ぎ始める。
ナイトダイビングの主役はライトだ。ライトで照らし出されるものたちは、魚も珊瑚もウミウチワもヤギも、岩壁ですらその本来の色を蘇らせる。一抱えほどの岩の下に緑色のナンヨウブダイが眠っていた。起こさないようにライトの明かりをはずす。
周囲にライトを当てると、大小の岩のあちこちで、赤い小さな目が光る。昼間のグロットも明るいとはいえないが、これほどのエビは出てこない。やはりエビたちは闇夜が好きなようだ。水深21メートル。探索するライトの軌跡の中に、一瞬、長いヒゲがうごめいた。2メートルほどの岩の下。高さ20センチ程度の隙間にそれはあった。 近寄ってライトを当ててみる。イセエビである。しかし、ヒゲが異様に長い。3人は岩の周りに集まった。いつもは好き勝手にあちらこちらを見ている3人だが、こういうときの連携はすごい。暗黙のうちに、一人は初めに発見した隙間を覗き、もう一人は反対側の隙間に移動、最後の一人は別の隙間をサーチするといった具合だ。
その3人ともが確認したエビは、体長40センチもあろうかという大物であった。写真を撮ろうとしたのだが、そのエビは図体の割にはすばしこく、なかなかファインダーに収まってくれない。そうこうしているうちに、ほかに見えない穴でもあったのであろうか、エビの姿は消えてしまった。とうとう写真は撮り損なってしまった。カシラはあきらめ、近くに置いてあったロープ付きのサブライトを片手に移動を開始した。我々もそれにつづく。移動した先は右穴近くのさらに右側の洞窟だ。この浅くえぐれた洞窟に入った我々の脳裏には、一瞬、ツインケーブでのことが思い起こされた。
文字通り、真っ暗。あたりまえだが、ライトを消すと、自分の手も見えない。このような闇は、なかなか経験できるものではない。光がどこにもないのである。ともすれば方角どころか、上も下もわからなくなってしまう。すぐにライトをつけた。岩壁や、底には相変わらず赤い小さな目が光っている。へろへろと泳いでるやつもいる。岩壁の小さな亀裂の奥にウコンハネガイが口を開けていた。ライトの光に反射して唇の稜線が怪しく青く光る。
そのライトを自分の腕に当てる。ダイビングコンピューターは予定の浮上時間とエアーの残量を示していた。ゆっくりと浮上を開始する。
石舞台のあるメインエリアに通じるアーチをくぐり、水面下5メートルをゆっくりと進む。カシラが浅い洞窟の入り口でサブライトをはずしたロープを回収に行く。私と神様はエキジットブイの水面で待った。ロープが岩に引っかかってしまい、少し時間がかかったが無事回収できたようだ。
浮上時刻21時15分。名残惜しくはあったが、ほぼ予定通りの行動を終えた我々は、慎重にエキジットし、登りの階段へと向かった。
グロットはカシラにとっては、自分の庭のようなもの。外洋に出ないのであればガイドロープは必要ないはず。なぜここまで準備が必要であるかは、今までの「ひょっとこレポート」を読んでいただければおわかりだろう。慎重に慎重を重ね、安全で楽しいダイビングを模索する。カシラ流である。さて、今日のグロットはこれで2本目。階段が高く感じられたが、カシラが教えてくれた方法で登ればそれほど疲れは感じない。2秒に一段くらいのペースで両足の筋肉をバランスよく使ってゆっくり登るのだ。平静時、心拍数の早い私でも階段下で78回/分が階段上で120回/分。カシラにいたっては登りきっても1分間に80回を切る。
ダイビング前後の激しい運動は減圧症の危険性を増す。グロットを潜るには、この方法は有効であるといえる。
車に戻りタンクを下ろすと、すぐに別の車がやってきた。こんな時間になんだろう。車の男がカシラと挨拶を交わす。どうやら、Fish & Wild Life(魚類鳥類野生動物管理局)のようだ。ヤシガニや魚介類の密猟を見回っているのであろう。彼らが見回ってくれているのであれば、あの岩の下にいた大きなイセエビも人間に捕られることはないだろう。いや、今後イセエビが多く住み着くことも考えられ、グロットナイトがますます楽しくなるだろう。 クラブハウスに帰ったのは夜10時半に近かった。機材を片付け、11時の夕食。もうハラペコである。女将さんはいやな顔一つせず、我々にたっぷりと夕食を出してくれた。さあ、エネルギーも満タン。ゆっくり寝て、また明日も楽しいダイビングだ。
「カシラッ!、明日の一本目は?」
「グロットです」
「・・・・・・・・・」